日本映画監督新人協会
会長/中田新一
曾て多士済済、多才な監督たちを育てた温床。
そこは時には激しい議論を交し互いを啓発し語り合い飲みあかした「場」であった。
この「場」を知る人も少なくなり数名の者が辛うじてその伝統を語り部のように守ってきた。
ある時期、監督をしていた者が監督協会に流れ、また会にメリットを感じなくなった者は自然に去っていった。
会費は未納、借入も出るような状況のなかで会長が私にまわってきた。
幹事が数名集まり、この会に展望があるのか存続の話しで暗中模索の会議が持たれていた。
ある先輩に「どうして会長を受けたのか、君は会長とか理事とかが好きなのか?」と言われ、ずいぶん後悔したものだ。受けた理由は至って単純なものであった。一つは新人の助監督見習いの時のチーフが声をかけてくれた事。
会費滞納、活動ゼロの私だったが会員名簿には入っていた。
二つめに、もう二十年も前になるか、あるメジャーの仕事で監督を降ろされた事件があった。
全く私にとって一方的なクビであり、若輩者であったのかプロデューサーと激しくやり合うことになってしまった。

回りの友人、先輩、後輩も声すらかけてくれない四面楚歌状態であった。
その時、月光仮面かウルトラマン、はたまたスーパーマンのように唯一組織決定で援護してくれたのが
「日本映画監督新人協会」だったのだ!!
この応援が物心共に私が今日なんとか映画を撮れている原点になっている。
その恩義は私にとって海よりも深く山よりも高かった。ただそれだけのことだった。
しかし私の事もだけれど、この協会は時にはすごい力を発揮してきていた。それを私は知っていた。
撮影現場で事故に遭い死に至ってしまったフリーの助監督の労災を見事勝ち取ったりもしていた。
火事場の底力を仲間の為に発揮する人たちの集まりに私はきっとひそかに尊敬していたのだと思う。
迂闊にも会長を受けてしまった理由を長々と述べさせてもらった。 
集りの名称として協同、共同、交流と付けているが、会というものは人の集りで交流することなのだろう。
映像文化の可能性を追求するのに・人間・を忘れてはならないことは言うまでもない。
交流会と称しての飲み会を月一回、勉強会と称して数名のマニアックな合評会(?)を一回。
人は確実に集り増えてきた。赤字を解消し健全(?)な会になりつつある。

嬉しいのは助監督だけでなく、監督、監督のような者(失礼)、デザイナー、ライター、編集者、記者、劇団員、男優、女優の卵と年増ミュージシャンノノ呉越同舟。当然のことなのだ。
映像文化を追いかける者はいまやすべてのジャンルの人たちなのだ。
映画をはじめ、映像創作は常に時代の先端を切り裂いてきた。
集う人たちの顔を見るにつけ(勝ち組はいないが、ワーキングプアはいる)、時代を反映、先取りしている人たちだと感ずるのだ。
≪るつぼ≫から燃えたぎったエネルギーを発散してほしい。
少しでも協会の良き伝統を引きついでいくことができるかどうか確信は無いが、皮肉にも《火事場の○○○》だけは生まれている。

会長 中田新一 (監督) プロフィールはこちら